キャンディと100年前のアメリカ - 銀行・世界大恐慌
マンガではアードレー家の銀行なんて背景にちょこっと出てきただけ。設定上たいした意味はなかったのかもしれません。
でも、歴史的な事実やちょっとしたエピソードとからめて見ていくと、空想が膨らんでけっこうおもしろい。
※銀行名は基本的に当時の名前で表記しています。経営破綻したところもありますが、ここでは触れません。
アードレー家は大恐慌を乗り越えられる?
<アメリカの大富豪の資産は日本人の感覚では理解できない>アードレー家が乗り越えられないかもしれない「大恐慌」は、管理人の中では「キャンディの世界では起こらない」と思い込むことにしていましたが、アメリカ史の本を読んでいると必ずでてくる「現在のアメリカの大部分の富は19世紀に作られたもの」という文言。
雑誌『Forbes』の世界長者番付は、19世紀から続く大富豪の子孫たちがいまだに登場しているそうです。
なんだ大丈夫そうじゃあないか。
この富の不均衡の原因としては、大富豪の都合のいいように法律ができていたことなどが指摘されています。
たとえば所得税についていえば、1872年に撤廃されたこと。そして1913年に所得税法が導入されるまで膨大な資産に課税されることがなかったこと。
結局のところ、この時期まで資産は増やせるだけ増やしていたの で、大恐慌で大損して資産が半分になろうがびくともしない。
今回の金融危機で、世界長者番付ランキングにかなり変動があるかもしれませんが、ここのテーマとしては現代は関係なく、史実として多くの大富豪が大恐慌を切り抜けているということがポイントになります。
単純に考えて、アードレー家は資産的な点では問題はないだろうと楽観視できると思っています。
でも、アルバートさんとアーチーの経営しだいでは油断はできません。
なので、史実を追いながら破産の可能性も見ていくことにします。
作品から後のことなので、アルバートさんやアーチーがどんな実業家になるのかはわかりません。
ファンそれぞれのアルバートさんやアーチー像で違うと思うので、ここではなるべく突っ込んだことは書かな� ��つもりです。なるべく (笑)
アードレー家の事業は「銀行」と「工場」
<「銀行」と「工場>【シカゴは金融と製造業の都市】
アードレー家の事業のひとつが「銀行」。
小説には「銀行をはじめ、かなり手広く事業をやっていた」とあるので、銀行業がメインのようです。
銀行のほかにたくさんの「工場」を持っているらしいが、どんな業種かは漫画にも小説にも記述がないのではわかりません。
キャンディの患者だったマクレガーさんによると、アードレー家は「成金」で、マクレガー家のほうが古い家柄らしい。(マクレガーさんはアメリカでのことを言っていたのかもしれませんが、スコットランドでもマクレガー家は伝統ある氏族)
シカゴは金融のほかに製造業の中心地でもあります。
原作者はその象徴である「銀行」や「工場」をアードレー家の事業とし、シカゴに君臨している大富豪としたのか� ��しれません。
20世紀初頭のシカゴは鉄鋼産業や食肉加工などが有名です。
当時シカゴは金融ではニューヨークに継ぐ2位。製造業では全米の中心的な都市。シカゴ駅をハブ駅として、全米に四方八方に鉄道網がはりめぐらされていたため、輸送にも最適な場所でした。
鉄鋼事業を展開していた財閥は多いので、史実を参考にするとしたらアードレー家の事業の一部は鉄鋼になるのではないかと思います。
具体的には、カーネギー財閥の「カーネギー鉄鋼」、モルガン財閥の「フィデラル鉄鋼」(後にカーネギー鉄鋼などを買収統合し鉄鋼トラスト「USスチール」を設立)、メロン財閥のベスレヘム製鉄など。(※モルガンとメロンは銀行業がメインの財閥)
映画『天国の日々』(主演:リチャード・ギア)には、キャ� �ディが看護婦になって第一次世界大戦がはじまった頃のシカゴの鉄鋼工場のシーンが冒頭に出てきます。
【銀行名】
アードレー家の銀行名は、小説によると「シカゴ銀行」。
マンガで確認できるのは「・・・R BANK」の文字のみで、銀行名はわかりません。
アードレー家のシカゴ銀行とは関係ないのですが、同じ名前の銀行が実在するか調べてみたところ、1863年創設の「ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC)」という銀行がありました。
後に合併を繰り返し、ファースト・シカゴ(1969)→ ファースト・ワン (1998) → JPモルガン (2004) と、アメリカの銀行は合併が多すぎて銀行名を追うのがもう大変!
銀行名のつけ方には規則があり、国法銀行には「ナショナル」がつきます。シティバンクも正式名称にはナショナル(N.A.)がついています。
「ファースト」は、同一地域の国法銀行で一番最初に申請した銀行についています。(1864年廃止)
日本も昔は銀行名は番号でした。第一銀行(今はみずほ銀行。キャンディ世代では第一勧業銀行がおなじみ)や、長崎に今もある十八銀行など。
【アードレー家の銀行のような大銀行は少ない】
100年以上前のアメリカの銀行は現在とはずいぶん違ったものでした。
簡単に設立できたので、設立件数はすごいけれど、倒産件数もすごい。
金融恐慌が多く(下記年表参照)、中央銀行がないため金融システ� �が不安定で、取り付け騒ぎが起こって破産した銀行は多い。
1860年までに作られた約2,500行のうち、1,000行は開業後10年たたずして廃業しているそうです。
日本やイギリスの銀行は、銀行数は少ないけれど支店数は多く、全国に支店を設置できます。
しかし、アメリカではほとんどの州で支店を出すことは禁止されていて、シカゴのイリノイ州も支店は出せませんでした。
そして、アードレー家のような大銀行よりも、地方のコミュニティのような小さな銀行が多かったようです。行員4〜5名という家族経営のような銀行もたくさんありました。
アメリカ金融史年表
後述する金融史を年表にまとめてみました。文章だけだといつの話だかわけがわからなくなってしまう (笑)<初期の銀行>
アメリカの植民地当時は、本国イギリスが公認の銀行業を禁止していたためアメリカの銀行はありませんでしたが、大陸会議により1781年(独立戦争中)に設立が許可されます。
【アメリカ最古参の3銀行】
- バンク・オブ・ノース・アメリカ (1782)
アメリカ最初の銀行および株式会社。
独立戦争真っ只中の1781年に大陸会議から設立が許可され、翌1782年より営業開始。
独立戦争の資金調達が目的で設立された。
創設者のロバート・モリスは、アメリカ合衆国の商人で、アメリカ独立宣言やアメリカ合衆国憲法の署名者。
1929年にファースト・ペンシルバニアと合併。(その後合併が続き、現在の銀行名は不明) - バンク・オブ・ニューヨーク (1784)
1784年にアメリカ合衆国建国 の父の1人であるアレクサンダー・ハミルトンが設立。
現在も営業中。(今はメロン銀行と合併)
ハミルトンはアメリカ最古の新聞ニューヨーク・ポストも創設。
アメリカで始めて取引された株は、このバンク・オブ・ニューヨークの株。 - マサチューセッツ銀行 (1784)
後のボストン・ファースト・ナショナル銀行
【昔の銀行の様子】
アメリカ最古の銀行「バンク・オブ・ノース・アメリカ」と合併した「ファースト・ペンシルバニア銀行」では、1982年の創立200周年に本店で記念行事が行われ、当時の店頭風景が再現されました。
『アメリカの金融制度 (高木仁 著)』によると、「植民地時代の衣装をまとった紳士が馬車から降りて店内に入り、古風な木造の家具調度によって復元された事務室で、アメリカ最初の銀行預金口座を開設する」という寸劇が演じられそうです。
日本の銀行でも明治時代を再現してやればおもしろいと思いますが、絶対ありえないですね。
【日本にあるレトロなアメリカの銀行】
そういえば、アメリカのレトロないい雰囲気を再現してる銀行がディズニーランド内にありました。(ランド内の三井住友銀行)
映画『俺たちに明日はない』に、銀行強盗に襲われる町の銀行がたくさん出てきますが、窓口の雰囲気なんかまさしくこんな感じですね。もちろんランドの銀行はきれいすぎですが。
『アメリカの銀行 (ポール・B・トレスコット 著)』によると、「アメリカの大多数の銀行は小銀行で、農業の交易センターとしての役割を果たした。預金者の数はせいぜい100人。1つか2つの部屋で営業し、行員は4人ないし5人以内。タイプライターもなく、産業革命の影響も受けず、記帳も計算もすべて手と頭によって行われた。」とある。
ディズニーランド内の銀行は、そんな古き良き時代の「典型的な銀行」をイメージしているように思います。
当時の事務用品ですが、タイプライターはイギリス人が考案し、1873年にアメリカ人ショールズが実用化。
イリノイ州とニューヨーク州で有名なアメリカ最古の兵器メーカーのレミントン家により1874年に販売され、1876年以降大量生産される。事務効率が格段に向上しました。
あと、今ではあたりまえとなった、書類� �理で使用する「タブ」や「インデックスカード(仕切り)」は、19世紀末に銀行員ジェームズ・ランドが考案し全米に広まりました。
【金庫破り・銀行強盗】
銀行強盗は田舎の従業員の少ない小さな銀行で、コソ泥は都市の銀行で起こりました。
金庫破りは、金庫が木製の頃はバールなどで、鋳鉄製になると火薬やドリルで、19世紀末にはダイナマイトを使っていました。
20世紀になるとニトログリセリンを使用。(鉱山現場などに置いてあるダイナマイトからニトロを採取)
その頃、シカゴでは運河建設工事が行われており、キャンプに渡りの泥棒が増えたため、銀行で金庫破りが多発しました。
【銀行強盗の映画】
ブラッド・ピット主演の『ジェシー・ジェームズの暗殺』は、アメリカ初の銀行強盗� �成功した(1866年2月13日) 実在の人物ジェシー・ジェームズの話。実際に襲われたミズーリ州の銀行の中には、それが原因で破産してしまったところもある。2月13日は「銀行強盗の日」だそうです。映画に出てくるのは銀行強盗ではなく列車強盗のシーン。
『俺たちに明日はない』は、大恐慌時代に実在した銀行ギャングがモデルの映画。
【警備会社】
アメリカ初の警備会社はシカゴの「ピンカートン探偵社 (1850)」。
ピンカートンは偽札作りの一味を捕らえたのがきっかけで、保安官助手になり、シカゴ警察の探偵となりました。
おもに列車強盗関連の事件を手がけたのですが、リンカーンの暗殺計画を未然に防ぎ有名になりました。
その後、1894年に銀行連盟 (1875年に議会対策や防犯対策等の共通目的のために設立) の公認の警備会社となり、警備のほかに金庫破りの捜査などで活躍。
19世紀末、イリノイ州では多くの探偵社が設立され、公警察よりもこのような探偵社の私警察(プライベート・アイ)が頼りにされていた時代でした。
大口顧客には資本家たちがおり、労働スパイを送り込んでスト破りを行い、労働者の敵として一般市民からは非難が集中。
評判はよくなったり悪くなったりで、当時はアメリカだけではなく海外でもその名は知られ、「シャーロック・ホームズ」にもピンカートン社が出てきています。推理小説ファンにはおなじみのようです。
20世紀初頭は、私立探偵の黄金期で産業として発展。
シカゴでは1910年に私立探偵が34社あり、1914年には1000名の特別警官がいました。そのうち800名が鉄道警官で、ほかに銀� �や工場・デパート・ホテルなどで警備をしていました。
全米の大都市すべてに支社があるピンカートン社は、銀行連盟 ・宝石商警備連盟など大口顧客を持っていて、犯罪資料はデータベース化されており、警察よりも近代的なものでした。シカゴ本部事務所には全国の警察から犯罪者に関する情報の照会があったほど。
ピンカートン社では警察幹部になるものもいたので、当時の探偵社は警察とはかなり密接な関係だったようです。
1909年、法外な顧問料を要求するピンカートン社にかわって、新興の「バーンズ探偵社」が銀行連盟と契約。
バーンズは元シークレット・サービスのエージェントで、1909年に探偵社を設立。1921年にはFBIの前身の捜査局の長官となった。
ピンカートン社は、1892年に「カーネギー製鋼」からホームステッドのスト破り、1916年に「モルガン商会」から盗聴の捜査を依頼されています。
アードレー家も「銀行� �や「工場」などで、「ピンカートン社」や「バーンズ社」のような探偵社にお世話になっていそうです。ジョルジュもこういう探偵社を使っていたかも。
<20世紀初頭の財閥たちの銀行>
モルガン財閥 J.S.モルガン (1813―1890)
銀行家。モルガンの祖先は1636年に移民した農民。
1854年にロンドンに移住し、J.S.モルガン商会をロンドンに設立
J.P.モルガン (1837-1913)
銀行家。
1895年ニューヨークにJ.P.モルガン商会設立。
J.P.モルガン二世 (1867-1943)
銀行家。 J.P.モルガン商会 メロン財閥 トーマス・メロン (1813-1908)
弁護士。銀行家。北アイルランドから移民。
アンドリュー・ウィリアム・メロン (1855-1937)
銀行家。アメリカ合衆国財務長官。慈善家。T・メロン・アンド・サンズ銀行 (1869)
↓
メロン・ナショナル銀行 (1902)ロックフェラー財閥 ジョン・D・ロックフェラー (1839-1937)
会計士→石油関連事業の実業家。慈善家。
ジョン・D・ロックフェラー二世 (1874-1960)
銀行家。慈善家。ロックフェラー財団設立。経営ではないがエクイタブル・トラスト・カンパニーはジョン・D・ロックフェラー二世が筆頭株主。
後に「ロックフェラー銀行」と呼ばれる
チェース・ナショナル銀行と合併
モルガンもロックフェラーも、アードレー家の「ウィリアム」みたいに代々似たような名前をつけていますね。
代が変わっても、どうせ先代と変わらないんだろうという保守的な印象を与えるようです。
19世紀末から20世紀初頭は、金融王モルガンの時代で、モルガンのライバルは、ユダヤ系金融財閥の「クーン・ローブ商会」。
アンドリュー・メロンはマスコミを避けていたため、メロン財閥に関しての話が少ない。そのためか、世間には守銭奴のステレオタイプとイメージされることに。
【みんな最後には慈善家に】
守銭奴と言われ、金の亡者のように資産を増やし続けていた彼らは、最後には気持ちがいいくらい気前よく大金を寄付してます。 何事にも半端なことはいやなんでしょう。一般大衆のために(?)と慈善活動を行っていましたが、本人が思い描いている姿と世間が思っている姿のギャップはかなりあったようです。「今までことを帳消しにするため」「税金対策」など、世間の反発はあまり変わらず厳しい。
アルバートさんは引退前の若いうちから、孤児院や病院などにたくさん寄付しそうですね。
アードレー家も守銭奴や泥棒男爵のイメージは持たれていると思うので、世間やマスコミをうまく味方につけて、アルバートさんやアーチーには頑張ってほしいところ。
マスコミ対策は大変なようです。放っておけば、新聞や雑誌には好き勝手なことを書かれてしまう。あまり評判が悪いと風刺漫画に載って、変なセリフをしゃべらされることになる。
J.P.モルガンはニューヨークやシカゴの新聞社や雑誌社などを買収していましたが、結局は2社しか買えなかったので途中であきらめたらしい。
<シカゴの銀行は全米でどのくらいのランクか?>
アードレー家の銀行は全米でどれくらいのランクに食い込むだろうか? と、ちょっと気になったので当時の参考になりそうな銀行ランキングを調べてみました。
残念ながらキャンディの時代の資料はなかったので、最終回から10年後の全米ランキングです。
キャンディの世界ではアルバートさんやアーチーが働きざかりのころでしょうか?
1920年代は、世界金融の中心がロンドンからニューヨークへと移っていった時代です。
シカゴはニューヨークにつぐ金融都市。
当時の全米の総銀行数 「23,401行」 のうち、6位・10位・17位がシカゴの銀行です。
【大商業銀行の預金残高ランキング (1927年)】
ハドソンフォールズ、ニューヨーク州
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参考文献 『アメリカ企業金融の研究 (西川純子 著)』 の順位を参考にしました
あれ、モルガン商会がない?! と思ったのですが、これは個人向けの銀行業務を行っていた「商業銀行」の預金ランキングで、大口の企業の融資を行う「投資銀行」は入っていない。
投資銀行を含むとどうなるのかと思って資料を探したのですが、投資銀行の資金源は預金ではないらしいです。
(預金だと預金者が引き出しにきた場合に支払う現金が常に必要となるため、資金源には不向き。預金のない投資銀行もある。)
それにもかかわらず、モルガンの預金額は上記ランキングでいうと6位に相当するらしい。すごい。(モルガンは大企業・同業銀行・外国政府の預金しか受け付けなかった。例外として個人では然るべき紹介者のいる金持ちのみ)
預金のない投資銀行は「投資会社」を設立し、株式の販売の引き受け手数料を資金源としていた。
管理人的には、アードレー家が商業銀行であったら、上位10位には入っていてほしいのですが、工場をいくつも持っており、財閥系の銀行であるアードレー家は、企業に融資をし、大口顧客しか相手にしない「投資銀行」のイメージが強い。
実際にはシカゴには商業銀行のみだったようですが、1933年のグラス=スティーガル法の制定で、商業銀行と投資銀行が分離されるまでは投資銀行業務を行っている大手商業銀行も多かったようです。
【財閥・銀行はたくさんの会社を持つ − 株の買占め・トラスト・持ち株会社・取締役兼任制】
投資銀行のモルガン商会やクーン・ローブ商会は、預金口座を持っていた顧客の会社( 鉄工業、鉄道業、電気・電話・ガスなどの公益事業)に、取締役を送り込んでいて、関連会社としてつながりを持っていたようです。(取締役兼任制)
- モルガン商会 - 資産合計200万ドルに達する89の会社の126の取締役を兼任。
- メロン財閥 - 約150の企業の取締役を兼任。
アードレー家の「工場」は、自社で設立したのではなかったら、上記のモルガンやクーン・ローブ商会のような感じではないかと思います。当時から銀行では、自分が支配したい業務の産業企業に業務担当取締役を送り込むという取締役兼任制を使っていたそうです。
作品中の出来事と史実の財閥とを結びつけてみます。
- シカゴの鉄道会社
キャンディがニューヨークから帰ってきてシカゴ駅で倒れていたときのこと。駅員が「アードレー家の方だ! すぐ連絡を!」とすごい驚きようでした。
アードレー家が単なる町の名士くらいならここまで騒がないかもしれませんが、「ノーザン・パシフィック鉄道 (NORTHERN PACIFIC RALL WAY)」にはアードレー家の資本が入っていたとすると、この鉄道会社としては一大事です(笑)
そうなると、エルロイ大おば様の「シカゴの駅長にまで、この娘がアードレー家の一員であることを知られてしまった!」のセリフが、ちょっとばかりニュアンスの違ったものになったりします(笑)実際には「ノーザン・パシフィック鉄道」はモルガン傘下。『モルガン家 (ロン・チャーナウ)』によると、モルガンはある鉄道会社の社長に「君の鉄道だって! とんでもない、君の鉄道は私の得意先の皆さんの所有物なのだ!」と怒鳴りつけたことがあった。「鉄道は絶えず設備投資の資金を必要とし、事業家一人の資力ではもたなかったから、こうした銀行家の支配に屈する素地が十分にあった」とある。
J.P.モルガンは鉄道の専用車を持っていたらしいです。
1920年代になると企業の取締役たちは、専用列車で会議に出席してまわるのが、当時の「ステータス・シンボル」。
上記のランキング1位のナショナル・シティ・バンクのチャールズ・ミッチェル会長の専用列車はキッチンとシェフ付きでした。
もしかしたら、アードレー家も専用列車を持っていたかもしれません。 - ロンドン行きの豪華客船
キャンディが乗船したのは「モーリタニア号」らしい。(なかよしまんが新聞より)
経営はイギリスのキューナード社で、英国政府の補助で「モーリタニア号」を建造。
ライバル会社の「タイタニック号」で有名なホワイトスターライン社もイギリスの会社ですが、J.Pモルガンが設立した海運トラストIMM社 (インターナショナル・マーカンタイル・マリン)の子会社。経営はイギリスの会社で、所有はアメリカ人ということになります。モルガンの銀行(出資) → 海運トラスト(親会社) → ホワイトスターライン社(経営)
- 船の船長
アンソニーのお父さんのブラウン氏は船の船長で、小説によるとローズマリーとの結婚では「生まれは悪くないがただの船長」とまわりから大反対されたとあります。
船長のどこが悪いんだと思いましたが、上記の銀行と船会社との関連をアードレー家に置き換えてみると、アードレー家の銀行(出資) → 海運トラスト → 船会社(経営) → 船長(雇われる側)
こうなると、アードレー家側からみれば、ただの船長となってしまう。
モルガンのIMM社は、第一次世界大戦では軍事物資の輸送を行っていたので、もしかしたらブラウン氏も、会社の方針次第では戦争に巻き込まれていたかもとちょっと心配に。
でもステアのお葬式の時はステアの両親(アラビア)と一緒にシカゴに来た� �、いつも長い航海と言っている (たんにアードレー家を避けていただけかもしれませんが)。とりあえずはヨーロッパ航路ではなさそうなので大丈夫か。 - シカゴの病院
多くの財閥が慈善事業を行い、病院や赤十字などに寄付をしていました。
キャンディが聖ヨアンナ病院をクビになったときのレナード副院長のセリフ 「シカゴじゅうのどの病院でもきみをやとってはくれないだろう」。
ということは、アードレー家はシカゴ中の病院に寄付をしていた?JPモルガン商会は1917年に監督派教会に寄付した資金を自分の銀行で運用していました。すべてがそうではないにしても、寄付したお金をまた新たに資金源にするとはずるい。でもまあ、もらった側も増やしてもらえるんだし困る人はいない。
- アルバートさんのロンドンでの仕事
ロンドンでキャンディたちの前では、動物園の飼育係だったアルバートさん。
小説では「動物園に勤めるかたわら、アードレー家の仕事もしていた」「イギリスに進出していた仕事も、どうにかうまくいきはじめた」とある。
アードレー家のロンドンでの仕事とはいったい何なのでしょう?
具体的なことは書いていないので、20世紀初頭のアメリカの銀行・資本家がロンドンで行っていた事業を参考にしてみます。当時イギリス政府や実業界が注目していたアメリカの事業の例です。
[金融業]
アメリカのJ.P.モルガン商会もヨーロッパでは名が知れた銀行でロンドンやパリにも系列の銀行がありました。
1900年頃、モルガンはアメリカ人実業家たちが不可能であった英� ��社交界に受け入れられ、女王への謁見も許されていた。
ロンドンのシティの金融街では、気に障る成り上がりのヤンキーと思いながら、対アメリカ投資の窓口であるモルガンに頼らざるを得ない状況で、モルガン個人に200万ドルのロイズの生命保険をかけていました。[シカゴの電化]
キャンディがロンドンに行った頃より10数年前になりますが、1901年にロンドンの地下鉄(ハマースミス−ピカデリー−シティの路線)の電化計画の地下鉄工事融資というのがありました。
これにはJ.P.モルガン商会も狙っていたのですが、結局シカゴの実業家チャールズ・タイソン・ヤーキーズが融資を引き受けることになります。
なぜシカゴの実業家? ヤーキーズって誰? という疑問があるのですが、電力史のほうを調べてみると� �
20世紀に入ると、電灯・電力のシステムはシカゴとベルリンが最先端で、ヤーキーズはシカゴの運輸事業の立役者、または輸送業の王者と呼ばれていた人物。(※1910年にはシカゴの電力システムは世界最大と考えられていた)
ヤーキーズが資本だけ提供したのか、それとも技術も提供したのかはわかりませんが、イギリスでは電化の遅れたロンドンに、シカゴのような電化された都市輸送システムを作りたかったようです。
財閥系のメロン銀行の本が全然ないので、参考にするのはどうしてもモルガンになってしまう。
<日本やイギリスの銀行との違い>
【銀行の種類】
アメリカの銀行は、二元銀行制度といって州レベルの銀行法に基づく「州法銀行」と、連邦レベルの銀行法に基づく「国法銀行」からなります。(日本は国の銀行法に基づく銀行のみ)
銀行の数では、初期のころから現在まで圧倒的に州法銀行の方が多い。
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州の自治権が強いアメリカでは、国法免許のほうが州法免許より上というわけではないようで、それぞれメリット・デメリットを考慮して、設立・転換していたようです。
国法銀行←→州法銀行のどちらへの転換も可能らしい。
法律によって規制が違う。(資本金や銀行券発行の課税率など)
個人銀行は基本的には小規模なのですが、JPモルガン商会やメロン銀行などの大銀行は例外で、はじめは個人銀行としてスタートし、後に法人銀行へ転換しました。この2つの銀行の転換時期は以外に遅く、モルガンは金融王として金融界や政界を牛耳っていたころはまだ個人銀行だったというのには驚きました。
・メロン銀行 − 1902年まで個人銀行
・モルガン商会 − 1940年まで個人銀行
アードレー家の銀行は「国法銀行」「州法銀行」「個人銀行」のどの銀行になるのでしょうか?
アルバートさんは子供のころ、「アードレー家の後継ぎは格式と名誉、そして取引先の信用上、直系のウイリアムでなければならない」という理由で名目上跡をつい� ��わけですが、このあたりの設定は正直無理があるなと思っていました。
国法銀行や州法銀行では子供が頭取(笑)または頭取不在の銀行経営は不可能。
法人銀行は株主や銀行の管理当局にすぐばれてしまう。
となるとモルガン商会かメロン銀行のような非法人銀行である個人銀行はどうなのだろうか?
個人銀行について『モルガン家 (日経ビジネス文庫)』によると、「パートナーシップという経営形態をとり(同族的な共同経営)、うるさい預金者や株主がおらず、部外者の監視に服する必要がなかったことが、モルガン商会を長らく秘密のベールに包むことを可能とした理由のひとつ。」「世間に情報を公開する義務はない」とある。(モルガン商会の個人銀行の経営内容が明らかにされたのは、大恐慌後の1933年に、銀行家の不正を暴く目的で開かれたペコラ聴聞会。)
そうなると個人銀行なら、一族で経営陣を固めて隠しとおすのは不可能ではないかもしれない。あとは事情を知っている関係者や役人、いろいろ探ってくる新聞記者などはお金で買収し、一族内では緘口令を敷いていたとか。
あと、小説では「成人であるというイメージを各界にうえつけるこ と」は徹底して行われたとある。
どんなことをやったんでしょうね。
もうひとつ、アルバートさん向けの話がありました。
仕事人間のイメージがあるJ.P.モルガンは放浪癖があり、海外に数ヶ月間旅行に出てしまい銀行には不在のことが多かったらしい。もちろん彼は創業者特有の「すべてを把握していたい」タイプ。パートナーである重役たちに事業の状況は逐一報告させ、重要な決定事項は旅行先から指示を出している。
息子のJ.P.モルガン二世も一年のうちで半年間も夫人と大好きなイギリスに行ってしまうことがあった。
こんなことができるのは個人銀行ならではで、信頼できる有能な重役たちがいるからできたこと。
あれ? よく考えたら似たようなことがキャンディキャンディにも。
放浪癖があって� �信頼できる有能な側近が常に連絡できる状態にある。そして遠くでアードレー家の養女という重要な事柄を決定し指示、あとは「よろしくたのむ」の手紙で有能な信頼できる人に一任。よろしくたのまれた大おば様は、なんだかんだいっても初めのうちはちゃんと面倒をみていた。(笑)
アルバートさんて人には頼らないで(任せないで)、何もかも器用に自分でやってしまうイメージがあったのですが、この養女の一件は、アルバートさんの将来の実業家像が少し見れたような気がします。
キャンディとニールの婚約パーティでは、大おば様にビシッと言っているし(大おば様オロオロ)、けっこう仕事とプライベートでは違っているのかも知れない。
※当時のJ.P.モルガンはスイートルームに宿泊するような豪華な旅をして いたし年齢もいい年。アルバートさんとは全然違います。
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【中央銀行がなかった】
他国の銀行との違いでまず最初にあげられるのが、1913年まで中央銀行がなかったこと。
なかったといっても、正確には初期に下記の2銀行が各20年間存在していました。
- 第一次合衆国銀行 (1791-1811)
- 第二次合衆国銀行 (1816-1836)
そのあと80年間、「最後の貸し手」である中央銀行が存在しなかったため、資金調達ができなくなり倒産してしまう銀行が多かった。
1907年の金融恐慌をきっきけに、1913年に連邦準備制度 (FRS) が設立。
日本銀行の開業が1882年(明治15)なので、日本より30年遅れでできた中央銀行でした。
※最近よくテレビのニュースで耳にするFRBの方が一般的な呼び方らしいので、以降はFRBと表記します。
連邦準備制度 (FRB)が設立されるまで、民間の銀行 (J.P.モルガン商会) が中央銀行の役割を担ってきました。
全米を12の「連邦準備区」に分け、それぞれに連邦準備銀行を1行ずつ置く。
今まで各州法銀行や国法銀行が発行していた銀行券は、各連邦準備銀行が発行することになる。(連邦準備券)
国法銀行は連邦準備制度 (FRB) に強制加盟させられたが、州法銀行は自由加盟だった。
加盟によるメリットよりも制限や義務(必要準備・報告・検査)などのデメリットのほうが多かったようです。
連邦準備制度 (FRB) は、大恐慌時に銀行破綻を防ぐことはできませんでした。
結局、1932年に「復興金融公社 (RFC)」が設立されたことにより、倒産危機にある銀行が救済されるようになります。
預金者保護は「1933年銀行法 (グラス=ステイーガル法)」の基づき設立された「連邦預金保険公社 (FDIC)」により、預金が保護されるようになります。
【銀行紙幣】
現在のドル紙幣のことを正式には「連邦準備券」といい、アメリカの連邦準備銀行から発行されています。
(ちなみに、日本の紙幣の正式名称は「日本銀行券」。日本やアメリカの紙幣は政府紙幣ではない。)
連邦準備制度が設立される1913年以前は中央銀行がなかったため、民間銀行が独自に紙幣を発行していました。
政府が供給する貨幣は硬貨のみ。
それらに大きさや図案に基準はなく、千種類以上の紙幣があり、偽造や詐欺・廃業した銀行の紙幣も流通していました。
連邦準備制度 (FRB) の設立によって、全国で使用できる紙幣「連邦準備券」が発行されるようになります。
今まで独自の紙幣を発行していた銀行の発行権は連邦準備銀行へと移りました。
キャンディの世界に置き換えてみると、アードレー家のシカゴ銀行が州法銀行か国法銀行だった場合、独自の紙幣を発行していたことになります。(紙幣はシカゴのイリノイ州内でのみ流通)。個人銀行の場合は紙幣の発行はできません。
時期的にはキャンディがロンドンに行っていた頃。行く前はシカゴ銀行券で、帰ってきたらドル紙幣が変わっていたという感じ。
【兌換】
この銀行券は兌換紙幣なので、価値は額面どおりの金額ではなく割引かれてしまう。
なので、銀行券を嫌って(銀行を信用せず)、金や金貨などをベッドの下にしまってい� ��人たちもいたようです。タンス預金ではなくベッド預金ですね。
管理人は金額が割り引かれてしまう紙幣なんて考えられません。割り引かれるくらいなら全額硬貨で持ちますね。しかも銀行が潰れてしまったらただの紙切れになるなんて、おそろしすぎる。
【必要準備】
預金に対して支払いのために、一定比率の現金を準備しておくこと。(比率は州によって異なる)
『大暴落 1929 (ジョン・K・ガルブレイス 著)』によると、ニューイングランド州は慎重な土地柄で知られるが、1850年代にニューイングランド銀行が閉鎖に追い込まれた。同行は86.4ドルの準備金で50万ドルの銀行券を発行していた。
この銀行のように、わずかな必要準備金しか持っていないくせに、過剰に銀行券を濫発し、預金者の「取り付け騒ぎ」で閉鎖・倒産してしまうケースは多かったようです。
アードレー家には資本はたくさんあると思うので、必要準備金不足の心配なんてないでしょう。
【シークレット・サービス】
シークレット・サービスは、もともとは偽造通貨の犯罪捜査・犯人逮捕を目的として1865年に創設。
正式名称は「合衆国秘密検察庁 (United States Secret Service)」で、財務省の一部局です。
大統領の身辺警護の任務は、1901年のマッキンリー大統領の暗殺事件を契機に追加されたもの。
全然関係ない話ですが、偽札作りというと、管理人はどうしても一作目の『ルパン三世』を連想してしまう。(笑) 造幣局でお札を刷ったり、偽札師とか出てきました。
【支店がない】
日本ではあたりまえの銀行の支店ですが、アメリカは初期の時代から銀行は支店を持たないのが普通でした。
1920年のアメリカの銀行数は約3万ですが、同時期のイギリスでは70行で、ビッグファイブといわれる大銀行の一つミドランド銀行は2000を超える支店を持っていました。
州法により支店設置を禁止または制限している州は多く、州内に支店を設置できるようになったのは最近になってからのようです。 上述しましたが、シカゴのイリノイ州も支店は出せず、銀行は本店のみ。
「アードレー家のもってる銀行とか工場がこの街にはたくさんあるのよ」というアニーのセリフがあります。
うーん、たくさんかあ。残念、史実と会わない。と思っていたのですが、大銀行では持ち株制度という法の抜け穴を利用して、経営者は同じだけれども別会社として複数の銀行を設立していました。(持株会社は日本でいう○○ホールディングスなど)
アードレー家も同様な方法で多くの銀行を持っていたとすれば、史実と一致させられます。
【山猫銀行】
名前はかわいいのに実態は全然かわいくない「山猫銀行」が乱立。
1838年の自由銀行法制定で、銀行開設に関する政府の規制がゆるやかになり、ある一定の条件を充たせば誰� �も銀行が設立できるようになりました。
そのため、「山猫銀行」とあだ名される乱脈経営のインチキ銀行が多発しました。
「山猫」の名前の由来は、人間よりも山猫のほうが多いような僻地に店を構えて、兌換に来るのを困難にさせていたからだといわれています。
兌換できる店は僻地に置いていたのですが、貸し付け業務はニューヨークなどの大都市で行っていました。
イリノイ州では、州法銀行74行のうち63行は銀行券の発券業務だけ行っていた銀行。これはほとんどが山猫ということなのでしょうか。あまりに偽造や詐欺などが横行するため、実在する紙幣の評価専門の定期刊行誌もあったほど。
1863年に「全国銀行法」が制定され、その厳しい規制によって山猫銀行は姿を消していきます。
戦後から大恐慌直前のバブル時代 (1918年〜1929年) − ジャズ・エイジ
キャンディの最終回からあとの時代は、アメリカでは繁栄の時代。アードレー家の作品中の豪華な暮らしぶりはもっとすごいことになっていることでしょう。「大恐慌」のことだけ書こうと思ったのですが、その直前までどれだけすごいバブルだったのかがけっこう重要だと思うので、いくつかあげてみました。
<一般の人々の生活>
【電気製品】
ラジオ・電気冷蔵庫・電気洗濯機・電気アイロンの普及。
20世紀初頭、アメリカでの電力化の最先端はシカゴ。
シカゴの実業家サミュエル・インサルのシカゴエジソン社(後のコモンウェルス・エジソン社)が低価格の電力を供給。全米の8分の1に電力を供給していました。
それ以前は、工場や企業で私設の発電機を持っていました。J.P.モルガンも敷地内にあったので、キャンディ時代より前のアードレー家のお屋敷にもあったに違いない。
【電話】
電話の普及。
キャンディには電話は一度も出てきませんでしたが、アードレー家のお屋敷には絶対あったでしょう。
管理人は、キャンディの最終回、ジョルジュはレイクウッドのアルバートさんに電話で連絡しただろうとにらんで� �ます。
【その他】
車 − フォードの大衆車が給料3か月分で買える値段に。
アメリカ大統領やシカゴではアルカポネが乗っていた「キャデラック」は高級車の代名詞だった。
マイホーム − 価格は年収の3倍くらいで購入可能に。
音楽 − ヴァイオリンの演奏からサックスへ。
ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、「ポギーとベス」、「パリのアメリカ人」がヒット。
<ローン>
買い物は「自分の持っているお金の範囲内」という常識が変わり、ローンで購入するようになる。借金の罪悪感も薄れてくることに。
<女性の時代>
【働く女性】
1920年代には働く女性が増え、女性の参政権も認められました。
看護生として勉強しているキャンディに、大おば様は「アードレー家の養女ともあろうものが・・・」と顔をしかめていましたが、小説によると、アルバートさんの子供のころは大おば様をはじめ、長老たちがアードレー家の事業をとりしきっていたようです。大おば様は大総長代理とはいえ実業家だったのではないか!
20世紀初頭に女性の実業家なんかいたのだろうか?
いました、すごいのが。ニューヨークの女相場師「ウォール街の魔女」が。
エルロイ大おば様は、シカゴの金融街のラサール街では「シカゴにも魔女が!」と恐れられていたかもしれない。
金融史としては、1907年に金融恐慌、1914年に連邦準備制度 (中央銀行) の設立など大きな出来事があったので、史実とあわせると大おば様は大活躍したことに。
・1907年 − アルバートさんはキャンディとポニーの丘であって2年後くらい。(アルバートさんまだ未成年)
・1914年 − アルバートさんはアフリカに行っていて消息不明。そして記憶喪失に。(大おば様シカゴの実業界に再登場?)
ニューヨークでは恐慌が起きたときなど、モルガンがウォール街の銀行家たちを集めて会議を開いていました。
アードレー家の銀行がシカゴ金融街の中心的な立場だったら、エルロイ大おば様がシカゴの銀行家たちに召集をかけるなんてこともあったかもしれない (笑)
【ファッション・化粧】
詳細は「ファッション」に書きました。
【デパートで買い物】
女性が買い物に多くの時間・金額を使うようになった。(いままでは買い物は男性のほうが多かったのか!)
ニューヨークやシカゴの老舗デパート (メイシーやギンベル、マーシャル・フィールド) は、若い女性たちの憧れの職場となる。
【タバコ】
女性の喫煙者が増える。
紙巻タバコが普及したのは1880年代以降。1890年に「タバコ王」ジェイムス・デュークがアメリカン・タバコ社を設立して独占。
1929年の「LUCKY STRIKE」の女性向けポスターの宣伝文句は、"すらりとした容姿が保てます"。
今だったら訴えられていますね。
フィルターつきが一般化したのは50年代以降。
【飲酒】
禁酒法体制下にもかかわらず、一般の女性たちも飲んでいたようです。
<禁酒法>
『アメリカの銀行 (ポール・B・トレスコット 著)』によると、「いくつかの銀行が密輸ウイスキーの製造と供給に一役買った」とある。
<1920年代が舞台の映画>
映画『チェンジリング』(アンジェリーナ・ジョーリー主演の実話) には、1928〜1934年の当時の様子が再現されています。(舞台はロサンゼルス)
働く女性・ラジオ・電話・街の様子・当時大流行の真っ赤な口紅のメイク・ファッション・映画の話題など。
エキストラを含む出演者の衣装やロサンゼルスの町並みは、当時を正確に表現するためにかなりリサーチしたようです。
主人公の女性はキャンディよりも少し年上くらいなので、キャンディも10年後にはこんなメイクやファッションをするのかも。
<シカゴ暗黒街>
大恐慌よりこちらのほうが心配です。アルバートさん大丈夫か?!
【ギャング】
1920年代、全米で最も無法地帯だったのがシカゴ。アル・カポネをはじめギャング団が街を牛耳っていました。
彼らのお気に入りの武器はマシンガン。
ギャングの殺人事件で犯人が逮捕されることはあまりなかったようです。
有名なギャングの抗争事件では、
・シカゴ・トリビューン紙の新聞記者であり、ギャングでもあったという "ジェイク・リンゲル殺害事件"
・オバニオン一家のボス "ディオン・オバニオン殺し"
オバニオンは昼は花屋で夜は闇酒密売をするギャング。その後、シカゴのボスが次々と殺害される報復合戦が始まる。
・聖バレンタインデーの虐殺
ギャングたちは警官の制服を着ていたため、街の人々は本物の警察による逮捕と思っていたらしい。
大恐慌の1930年、アル・カポネはシカゴで貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供していました。アル・カポネにとっては逮捕逃れであったが、多くの人々は感謝していたらしい。
【恐喝団】
ギャングのほかに恐喝団というのがいました。
「実業家を損害から守る代償として現金をとりたてる」というもの。彼らのお気に入りの武器は爆弾。
恐喝屋家業はシカゴではすごい繁盛し、実業家たちはアル・カポネに庇護� �求めた。
【シカゴの腐敗政治】
悪徳政治家のシカゴ市長 "ビッグ・ビル"・トンプソンが有名。
ギャングの2重生活(新聞記者や花屋)は、ただギャングをやってるより楽しいんでしょうね。
花屋というのが笑えましたが、殺した相手に花とか贈っていたかと思うとちょっとゾッとします。
そういえば、アルバートさんも2重生活を送っていました。
どうもあのさわやかな笑顔にだまされてしまいますが、自分の正体を隠し続けられるアルバートさんってけっこう曲者です。
小説では、キャンディが「わたしたち、まんまとだまされていた」、「アルバートさんは役者になったほうがいい」と出すつもりのないテリィへの手紙で本音が。
マンガでは、大おじ様や丘の上の王子様の正体を知った喜びまでしか描かれていないので、めでたしめでたしという感じでしたが、やっぱ りその後冷静になると... 。小説では原作者はそこまでちゃんと描いていました。
まあキャンディとしては当然の反応。ちょっと複雑な心境になるのはしかたない。最初は「キャンディ、それで平気なの?」と思いましたが、キャンディもだまされたと思っていたようなので、管理人はちょっと安心。アルバートさんが悪い。
<演劇>
アメリカ独自の演劇文化が発展していく。演劇やミュージカルは1927年が製作本数のピーク。
1929年にアカデミー賞が設立される。演劇の賞であるトニー賞は1947年からなのでまだまだ先。
テリィは演劇界と映画界のどちらを選ぶのでしょうね?
サイレント映画がトーキーになるのは1927年。キャンディの最終回から10年後。
小説では、エレノア・ベーカーがテリィの「ロミオとジュリエット」を変装して見に行ったとき、映画の仕事をキャンセルしたとある。1914年くらいだと思うので、まだチャップリンのサイレントのショート作品の頃。
映画も初期のころだし、美人で実力派の人気女優に映画界への誘いは必然。映画に出れば大都市だけではなく全米で話題になったのに、名声よりも息子を選んだか。
映画『雨� ��唄えば』は、1927年のサイレント映画からトーキーへと変わる頃の映画界の楽屋裏を描いたコメディ。
その頃のサイレント映画は見た目が大切で、「演技力」はさほど重要ではなかったよう。サイレントなので「声」はもちろん関係ない。
この映画にでてくる見た目だけはいいというドル箱スターの人気女優は「声」がやばい。そしてその女優がトーキー映画へうまく乗り換えようとした悪巧みがまわりを大騒動に巻き込むことに。
<株式ブーム − 一般大衆・女性が株を購入>
今まで、富裕層の人たちの世界だった株式市場に、一般の人々が参入してきます。
アメリカ全世帯の5〜7%が株取引を行っており、電話が普及したので取引は電話で可能でした。
女性までもが株に手を出していて、U.S.スチール社の37%・AT&T社(アメリカ電話電信会社)の55%が女性株主でした。
なんか今と似てますね。
多くの人々(約4割)は、自己資金は10%で借りられ残りは借金という「コール(請求)ローン」で株を購入していました。
コールローンというのは、「返済請求」があれば24時間以内に金を返さなければならない買い方。
安い元手で、てっとり早く儲けられることを知った大衆たちにより投資ブームが起こり、株式市場は大盛況。
誰もが「自分も大富豪になれるチャンス」とアメリカン� ��リームを夢見ました。
1929年には投資信託会社が1日1社設立していました。
コール(請求)がきても売ればいいと楽観的なことを言われてローンを組んでいたのだが、1929年の10月24日の "暗黒の木曜日" に金融会社が「コール」を出しました。
買い手などったくいない市場に一般の人々はパニックとなり株を投売り、大暴落となります。
「陰謀もの」の本によると、ロックフェラーなどの金融界の大物たちは事前に情報を入手していたので、目立たないように大恐慌前の高値で保有株を売り抜ける。そして株式市場からいったん手を引き、大暴落後の底値になったところで株を買い漁っていたとある。当然こういった内容は、伝記や硬めの金融専門書には書いていないので本当かどうかはわかりませんが、インサイダー取引は、今と違って規制などほとんどなく、頻繁に行われていたのは事実だそうです。
兵士だった内戦の女性
世界大恐慌
<暗黒の木曜日>1929年10月24日に歴史的な「暗黒の木曜日」と呼ばれる大暴落が起こる。
世界大恐慌はニューディール政策によって回復と習った覚えがありますが、10年後の第二次世界大戦の戦争特需によって経済が回復したという見方が一般的らしいです。
【銀行倒産件数】
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参考文献 『世界大恐慌 (秋元 英一 著)』・『株価大暴落が大恐慌を引き起こしたのか (阿部弘子 著)』
この一覧のポイントは、大恐慌前の高景気の時代から銀行倒産は多く、「復興金融公社 (RFC)」設立後、資金調達が困難な銀行が救済されるようになったので、倒産件数が減少していったというところ。ただし、この「復興金融公社 」は「百万長者への施し」と呼ばれ、有効に機能されていなかったと書いてある本もあった。
1932年までは、閉鎖していたのは田舎の中小の銀行が多い。
1934年の連邦預金保険公社 (FDIC)」の設立で預金者が保護されるようになるのですが、その前の1930年から1933年の4年間で9000以上の銀行数が営業を停止し、その損失の半分以上は預金者。
1933年銀行法 (グラス=スティーガル法)の制定で、預金銀行業務と証券業務の兼営は禁止となる。
<大恐慌も不平等>
統計の数値や当時の写真などを見る限り、すべての人々が平等に恐慌で苦しんだような印象を受けてしまいますが、実際は今以上に不平等で格差のあるものでした。
「失業率25% (1933年) で4人に1人が職を失う」という数値だけが強調されすぎているためか、ついその先の数値の内訳を見逃しがちです。
実際の統計数値の内訳まで追求している本がいくつかあったので、抜き出してみました。
【最も困窮した人々】
- 農民。特に中西部
大恐慌前の好景気の時から不況だったが、大恐慌後は全米で収入は60パーセント以上落ちた。
アメリカの農民の3分の1が借金を返済しきれずに農地を奪われている。
旱魃と砂嵐によって農地が消滅。 - 黒人
小作をしていた黒人たちは土地を追われた。
失業した白人に職を奪われた。(ビルの雑役、通りの清掃、家事奉公などそれまで黒人の仕事だったもの)
今まで以上に酷い露骨な人種差別。 - メキシコ人/メキシコ系アメリカ� �
失業した白人に職を奪われた。
政府による強制送還。 - 女性
連邦政府の規制により、雇用は一家族ひとりに限られた。そのため女性が解雇。
女性教師を免職する法律を定めた地方自体があった。 - 製造業の雇用が激減。企業は一斉に正社員を解雇。パートタイマーのみにした工場もあった。(困窮したのは工場経営者側というよりは雇用者側)
- 職を失わなかった労働者
- 中産階級の家族
(デパートで買っていた服は自分縫う。外食を控えた。内職をはじめる。保存食は自分で作る。下宿人を置く。など主婦がやり繰りした)
- 中産階級や� �の上の階級。
- 恐慌下に金儲けをした人 (株の空売りで大儲けした人たちもいる)
- 医者などの専門職や起業の管理職
- 公務員/大学の教師などは安定。
- 最上部の富裕層の生活を脅かすことはほとんどなかった。
最上部5パーセントの金持ちはアメリカの富の4分の3を所有し続けた。配当金や賃貸の収入は減ったが物価も下がった。 - 大衆車は売れないが、高級車キャデラックは売れ続けた。
<取り付け騒ぎ>
取り付け騒ぎは英語では「bank run」。
預金者が店頭に殺到し、混乱状態になること。ちょっとした風評が元で取り付き騒ぎが起こってしまうことも。
大恐慌後の1933年の「連邦預金保険公社 (FDIC)」設立までは、預金者の預金は保護されなかったため、銀行が潰れたら預金は「0 (ゼロ)」。
とにかく噂が出たら、真っ先に銀行に預金を引き出しに行くしかありませんでした。
特にアメリカでは、1932年まで資金のない銀行を救済する機関がなかったため、「取り付け騒ぎ→倒産」に近い状態だったようです。
【地方銀行はニューヨーク・シカゴの銀行へ預金】
多くの地方銀行は、ニューヨークやシカゴの大銀行へ「銀行間預金」をしていました。(インターバンク預金とかコール市場というらしい)
カルフォルニアの銀行もニューヨークやシカゴの銀行に預金していたそうなので、現金は大陸横断鉄道で運んだのでしょうね。
【現金輸送】
大恐慌のころ、お金はどうやって運んだのかと思っていたら、「装甲トラックで市から市へと金や現金を輸送。」していたそうです。
戦後10� �たっているので、装甲トラックはあったのか。1920年代シカゴでも装甲車で運んでいたと書いてありました。
【日本での取り付け騒ぎ】
1927年(昭和2年) の「昭和金融恐慌」では、銀行の取り付け騒ぎが全国で起こりました。
はじめは2流・3流の銀行のみが取り付けにあったのですが、しだいに民衆は一流銀行に対してまで疑念を抱くようになり、半狂乱の預金者が大銀行に一斉に殺到。
当時の有力銀行のひとつであった「川崎銀行」のエピソードが『伊勢丹百年史』に載っていました。
これを2、3度繰り返すうちに、殺気立っていた引出し客の間に伊勢丹が預金するぐらいだから大丈夫だろうという安心感が広がり、同銀行は取り付け騒ぎを免れた。
参考文献 『伊勢丹百年史 (伊勢丹広報担当社史編纂事務局編纂)』
この取り付け騒ぎの4年前、関東大震災 (1923年) で「伊勢丹」は店舗を焼失し、いままで築きあげてきた資産をことごとく失い、転業を考えたほど壊滅的な打撃を受けた。
そのとき復興資金の融資を引き受けてくれたのが川崎銀行で、それに対して義理堅い二代目社長が行った恩返しだった。
ちょっと脚色してるんじゃあないかと思ったのですが、日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトに「預金者の不安心理を一掃するためには、単純ではあるが、現金を銀行の窓口に高く積み上げるのが最も有効な方策であった。」とある。
『昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)』によると、「全国の金融パニックを収めるために、日銀は印刷機をフル回転させて紙幣を増刷、各銀行の窓口に現金を積み上げて預金者の不安心理をなだめようとした。この時印刷が間に合わず裏が白色の二百円� ��が出回ったのは有名な話。銀行の中には取り付けの群集の列に銀行員をもぐりこませ「あれだけ現金があるのなら何の心配もない。帰ろう」と引き上げてみせて、取り付けに並んだ預金者を安心させる作戦に出たところもあった。」 とある。
当時ではこういうパフォーマンス系のことを本当に行っていたところもあったようです。
銀行の倒産
<倒産しないための防衛策>もともと、準備資金のなかった銀行は取り付け騒ぎですぐ倒産するケースが多かったようです。
政府は取り付け騒ぎを防ぐため、「銀行閉鎖」という方法を使いました。
数日間、銀行を閉鎖させて、一時的に預金者にお金を引き出させないようにします。
閉鎖の間に騒ぎが落ち着くか、資金調達のめどをたてて危機を脱していました。
過去に金融恐慌を経験している銀行は用心深くなっていて、ある程度資金を溜め込んでいたようです。
大恐慌時、モルガンなど自己資金のあるところは、自社株を買い支えていました。
アードレー家も資本はあるだろうから、とりあえずは「自社株買い」だろう。
当時の銀行
キャンディの時代の頃 (第一次世界大戦前後) の対照的な2銀行の様子をまとめてみました。 ・「J.P.モルガン商会」 − (財閥系銀行)
・「バンク・オブ・アメリカ」 − (庶民派銀行)
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参考文献 『ジアニーニの銀行革命 (大森実 著) 講談社』
『巨大銀行の崩壊 (ゲーリー・ヘクター 著/植山周一郎 訳) 共同通信社』
『ウォール街指令 (大森実 著) 講談社』
『モルガン家 (ロン・チャーナウ 著)日経ビジネス人文庫』
アードレー家の銀行の本社はマンガの背景だけではちょっとわかりませんが、この2銀行のような建物てはなく、「シカゴ派」の建物の可能性もありますね。
でもモルガンのようにロンドンのマーチャント・バンク風にこだわって、石造の伝統的な雰囲気の建物かも...
銀行家の姿
<政府との力関係>・1913年、連邦準備制度(中央銀行)ができるまで民間銀行のJ.P.モルガン商会が中央銀行の役割を果たしていた。
・1920年代、アメリカ政府よりも民間の金融機関の方が力を持っていた。
外交に関しても、政府や大企業の経営者よりも銀行家は国際的視野をもっていた。
・大恐慌後、銀行家の信用・地位は失墜し大暴落。
・1935年、グラス=スティーガル法により、銀行と政府との力関係は逆転。
<銀行家と政治家・人種・宗教>
管理人がアメリカの金融史などを読んでいて、いつも途中で「アレなんだっけ?」となるのが大統領の名前や政党。
財閥系の本にもよく出てきて、政治献金や賄賂など銀行・大富豪と政治家との関係はかなり密接。
共和党と民主党はたいしてかわらないと言われているようですが、共和党の支持者は保守的な富裕層の白人・大企業・キリスト教右派など、民主党の支持者は中産階級から下が多い。
単純に考えるとアードレー家は共和党のような気がしますが、アルバートさんはなんか民主党の雰囲気が。
【銀行家と政党関連】
- バンク・オブ・アメリカのジアニーニは『巨大銀行の崩壊 (ゲーリー・ヘクター 著)』によると、「銀行業界では有力な民主党員でルーズベルトの強力な支持者だったから、就任式に出席し、4日間の銀行休業が発表される前に大統領から相談を受けた。」とある。
- JPモルガンは1920年代、ホワイトハウスに自由に出入りする特権に恵まれていた。
「民主党ができる限りわが商会の力をそごうと躍起になっている」と1917年にモルガンは手紙に書いている。
- [黒人]
黒人が銀行業界に入ることは考えられなかった。 - [ユダヤ系銀行]
雑貨商人上がりが多く、世襲制で血縁者か婚姻を結んだ者のみパートナーとなった。
小口の引受業務が中心。非ユダヤ系の投資銀行が嫌がったデパートや繊維メーカーなど。
リーマン・ブラザーズ商� ��はニューヨークのメイシーやギンベルなどのデパートが顧客。
ゴールドマン・サックス商会はシアーズ・ローバック社 (1893年創業のシカゴの通信販売会社) など。
クーン・ローブ商会だけは例外で、政府公債引き受けや鉄道融資などモルガンと張り合った。
- カトリック教徒は大口金融中心の銀行に入社するのがユダヤ人より難しい場合があった。
【キャンディ時代〜大恐慌時代の歴代大統領】
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<紳士銀行家行動規範 (ジェントルマン・バンカーズ・コード)>
19世紀頃から投資銀行間では暗黙の取り決めがあったようです。(以下は『モルガン家 (日経ビジネス文庫)』より引用)
など。 「どんなことがあろうと表向きは礼儀を守る」というものらしい。
大企業や富豪・各国政府を相手にした古くからある伝統的な銀行と、一般の小口顧客相手の商業銀行とは経営方針は違ってあたりまえですが、こんなに決め事があったのですね。
管理人はアードレー家は前者の投資銀行のような気がします。
単に格式ばっているだけなのかと思いきや、「巨額の資金を協調融資する場合、投資銀行はお互いにシンジケートを組む必要があり、いつ一緒に組む仲になるかわからないため、気に入らない相手でも敵に回せない」と� �う事情もあったようです。
キャンディの時代の頃はどうだったのかと思いましたが、「1920年代のウォール街では、この紳士銀行家行動規範が十分活用されていた」とある。
※シンジケートというと管理人は「犯罪」のほうのシンジケートをイメージしてしまうのですが、金融業界ではリスクを分担するために、銀行団として債権発行などを数行が共同で行うことがあったそうです。
<イケメン銀行家>
J.P.モルガンは自分の顔 (鼻) にコンプレックスがあり、写真は修整させ、どんなに有名な写真家がとった写真でも気に入らない場合は破り捨てた。
同商会のパートナーにはハンサムな若者を雇いたがったらしい。(プライベートでは女好きで、そっちの趣味はないよう)
『モルガン家 (ロン・チャーナウ)』によると、「かつてモルガン商会のパートナーといえば、鉄道業界再編成という激務に引き込まれて苦労した専門家という定評があったが、やがてお上品で、最新流行の服を来た、大金持ちの顧客向けにもってこいの、人当たりのよい、良家出身者という定評に変わっていった。地味な者がモルガンのパートナーに選ばれる機会はまったくなかった」とある。ウォール街きっての男性美の典型と呼ばれたパートナーもいたらしい。 (息子のモルガン二世� ��代では実力主義)
バンク・オブ・アメリカの前身のバンク・オブ・イタリーでは、イタリア系の女性にモテモテの美形銀行員を、倍額の給料を出して支配人として雇っていました。財布の紐を握っている主婦層をターゲットにした作戦でした。イタリア系らしい。
彼は顔だけではなく、礼儀正しくて頭も良く銀行員としても有能だったようで、銀行が大きくなる過程で果たした役割は巨大とある。
アルバートさんの登場で、アードレー家の銀行もかなりイメージが変わったことでしょう。
<爆破事件>
資本家の多くが恐喝・殺人未遂などの被害にあいました。爆破事件も頻発し、その巻き添えを食って殺された人もいた。
宛先は、司法長官や判事、ロックフェラー・モルガンなどその他政府官吏と資本家など36人。
発送されてしまったものもあったようです。
<ペコラ委員会>
なんかかわいい名前の委員会だなと思いましたが、委員会顧問のフェルディナンド・ペコラ氏にちなんで名づけられたそうです。
アメリカで1932年に証券市場調査のために設置された上院の銀行・通貨委員会の小委員会の通称。
1929年の株価大暴落前後の金融界の不正・逸脱行為を暴いた。
JPモルガンなど、多くの銀行家がこの聴聞会に招聘された。
アルバートさんも経営しだいでは...
<シカゴの銀行家たち>
手持ちの資料にはシカゴの有名な銀行家というのはあまり出てきませんでした。(下記2人くらい)
シカゴには財閥系の銀行はないようなので、途中でシカゴの銀行には興味を失い、あまり深く調べていません。どちらも銀行家としてどれくらい有名かは不明。
【チャールズ・G・ドーズ】
経営していた銀行等は不明で、本にはモルガン系のシカゴの銀行家とだけ書いてありました。
1923年、第一次世界大戦後のドイツ賠償支払い問題に関する計画「ドーズ案」は、チャールズ・G・ドーズを委員長とした国際専門委員会が立案。1925年にアメリカ30代副大統領となる。同じく1925年にノーベル平和賞を受賞。
【ウォルター・J・カミングス】
コンチネンタル・イリノイ・ナショナル・バンク&トラスト・� ��ンパニー・オブ・シカゴの頭取。(上述の銀行ランキングの6位と10位が合併したシカゴの銀行)
預金者保護の「連邦預金保険公社 (FDIC)」の最初の委員長。
不況の中での民衆の娯楽
<映画>大不況下で唯一栄えたアメリカの産業は映画だったらしい。
1930年には週に1億枚の切符が売れていました。当時の人口は1億2千万人なので、みんな週一回は映画を見ていた計算になります。
大恐慌の初期の頃に3分の1の映画館が閉鎖されてしまったとはいえ、値段も安く現実逃避できる映画はアメリカ人の心の支えになったようです。
【キング・コング】
1933年に『キング・コング』が上映され大好評。
キング・コングがエンパイヤ・ステート・ビルによじ登り、ニューヨークを踏み荒らし都市を破壊する姿は、当時の人々の社会に対する怒りをかわりにぶちまけているように感じてさせたのかもしれない。
【三匹の子ぶた】
同じく1933年、ディズニーアニメ映画の『三匹の子ぶた』が大ヒットしロン グランを続けました。
映画で歌われていた「狼なんかこわくない」の歌がブームとなり、 時代を反映してか、狼を大恐慌に擬えて、それに立ち向かっていく当時の人々の応援歌となった。
【白雪姫】
1937年に、ディズニー初のカラー長編アニメの映画『白雪姫』が空前のヒット。全米が主題歌「ハイ・ホー」を口ずさんだ。
製作には膨大な巨費が投じられたが、それをもはるかに上回る収益をあげました。
景気後退がひどい時期であったにもかかわらず、映画だけでなく玩具も飛ぶように売れました。
1930年代は映像的技術が進歩し、多くの作品が製作され、巨額の資金も惜しみなく投入されました。
演劇界からは有能な俳優や劇作家の大半が映画界に奪われることになります。
コメディや冒険ものだけではなく、歴史や古典文学なども製作されました。
<本>
【風とともに去りぬ】
1936年にマーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬ』が大ヒット。最初の半年で100万冊以上も売れ、大ベストセラーとなる。
女性たちの間では、「映画のスカーレット役は誰がやるのか?」「スカーレットはレッド・パトラーをほんとうに取り戻したのか?」などの話題でもちきりだった。
その後のスカーレットの人生を知りたいと続編を切望する声は多かったが、著者は「作品は完結している」と続編は書かなかった。
まるで「キャンディキャンディ」のようじゃあないですか。キャンディとテリィはあのままなのか? アルバートさんとはどうなるの? 続編は? と、キャンディも何年たってもファンの心をつかんだまま。
<ラジオ>
ラジオの出現はアメリカ人の日常生活を変えてしまいました。
当時の人々は、音楽やラジオドラマやニュースといったこの新しい情報メディアに誰もが釘付けでした。
一家団欒はテレビではなくラジオ。
当時は録音もできないし放送も生放送なので、その時間にいないと二度と聞くことができなかった。
キャンディ世代はきっと似たような経験をした覚えがあるはず。ビデオがない時代だったので「この番組は絶対見逃せない!」という意気込みが今とは全然違いました (笑) それでも「キャンディ・キャンディ」は見逃した回は多くて、まさかアニメの再放送が見れなくなるなんて思ってもみませんでした。
【火星人襲来】
この時代のラジオといえば、1938年のオーソン・ウェルズのラジオドラマ 『宇宙戦争』 の放送事件が有名。
キャンディは丘の上の王子様に「あなただれ? ・・(中略)・・ 宇宙人?」と聞いていますが、原作の『宇宙戦争 (H.G.ウェルズ作)』は1898年に発表なので、「宇宙人」は時代的には一応おかしくない質問なのですね。 (ちょっと苦しいけど)
あれっ? 当時は「宇宙人」ではなく「火星人」の方が一般的な言い方?
<演劇> 参考文献 『アメリカの芸術文化政索 片山泰輔 著 日本経済評論社』
政府はニューディール政策のもと、1935年に職のない俳優・劇作家・劇場スタッフなどの雇用を促す目的で、"フェデラル・シアター・プロジェクト (FTP)" を発令。1,200の作品が毎月1,000公演行われました。
1920年代の芸術文化の発展はニューヨークなどの大都市に集中していましたが、このプロジェクトは全国すみずみまで公演が行われました。多くが無料または低料金だったため、生まれてはじめて演劇を見る人たちが多く、だんだんと演劇が身近なものになっていったようです。
プロジェクトに参加した俳優の中には、オーソン・ウェルズなど、後にハリウッド映画で成功する人たちも多くいました。
映画『クレイドル・ウィル・ロック 奇跡の一夜』は、30年代ニューヨークの演劇界の実話 (FTP)。
若きオーソン・ウェルズが演出したアメリカの現状を批判する社会派のミュージカル『ゆりかごは揺れる (クレイドル・ウィル・ロック)』は、政府によって禁止に追い込まれましたが、出演者たちは上演をあきらめずに奇跡の一夜を起こすという話。
工場でのストライキがあちこちで起こっていた時代の資本家対労働者の様子など描かれている。
その他
<ラガン家の未来を予想>管理人が意外に気になったのがラガン家の将来。
大恐慌で、ラガン家はアードレー一族の中では「勝ち組み」ではないかと思ってしまうようなことがありました。
下記は2つは作品中の話。(年は推測)
- 1916年 フロリダに別荘がある (マンガの最終回より)
- 1917年 マイアミにホテルを建設 (小説より)
既に開発されているところに建ててもうまみはないと、ラガン氏は先を読んでいたのかも。
以下は実際に起きた出来事です。
- 1920年代にフロリダのリゾート開発で土地ブームがおきる。
住むつもりなどない人たちが買っており、一日に5回も転売されることもあった。
海岸沿いと言われて買った土地が、海岸線から20kmも離れていたり、「郊外」とつくと100kmも離れてたなんてことも。
『マイアミ・デイリー・ニューズ』紙は、新聞史上はじまって以来という504ページの新聞を出した。紙面は誇張だらけの不動産広告蘭で埋め尽くされていた。
ラガン氏は、まだ誰も開発していないブーム前に安い値段で土地を買っていたし、ホテルもかなりいい場所に建てられたはず。
それに、土地の一部を売って一儲けしていたかもしれもせん。
開発の初期のころ、マイアミ・ビーチの中心街の1区画の値段は800ドル。それが1924年には15万ドルになっていた(約1 85倍)。ピーク時にはもっとあがっていたことだろう。(フロリダの土地の一区画は50×100フィートだった。約15m×30m)
しかし、このあとラガン家にいくつも災難が襲うことになります。
バブル崩壊と2度のハリケーンに襲われ、大恐慌前にラガン家は不況突入か...と一瞬思いましたが、
もともとホテルの土地はただみたいな値段だったろうから、大した痛手ではなかったかもしれません。
アメリカはまだまだ好景気真っ只中。また安くなった土地を買い増して建て直しもできる。
でもこのあと、1929年に大恐慌が...。やっぱりこれでラガン家も、とまたまた思いましたが、
- 大恐慌中に、寒い冬を避けてカリブ海で過ごすことが金持ちたちの中で流行し、マイアミやハヴァナのホテルが栄えた。
きっとホテルのお客たちは、下記のような大恐慌とは無縁の人たちが宿泊していたに違いない。
ラガン家のホテルは他にもたくさんあったようですが、きっとイライザ並みのたくましさで大恐慌を切り抜けているかもしれもせん。
まあ、ラガン氏はうまくやっていくかもしれませんが、問題はニール。
フロリダにはアルカポネの別荘があったので、シカゴでチンピラにからまれていたときのように、ギャングの子分たちにからまれている姿が目に浮かびます。
参考文献 『アメリカの銀行制度 日本経済新聞社』
『ジアニーニの銀行革命 (大森実 著) 講談社』
『巨大銀行の崩壊 (ゲーリー・ヘクター 著/植山周一郎 訳) 共同通信社』
『ウォール街指令 (大森実 著) 講談社』
『モルガン家 (ロン・チャーナウ 著)日経ビジネス人文庫』
『アメリカの銀行 −その発展の歴史− (ポール・B・トレスコット 著) 文雅堂銀行研究者』
『アメリカ大恐慌「忘れられた人々」の物語 アミティ・シュレーズ 著 NTT出版』
『アメリカの20世紀 有賀夏紀 著 中公新書』
『大暴落1929 (ジョン・K・ガルブレイス 著) 日経BP』
『オンリー・イエスタデイ (F.L.アレン 著) ちくま文庫』
『シンス・イエスタデイ (F.L.アレン 著) 筑摩書房』
『アメリカの歴史 大恐慌から超大国へ (メアリー・ベス・ノートン他 著)』
『世界大恐慌 (秋元 英一 著) 講談社選書メチエ』
『アメリカの金融制度 (高木 仁 著) 東洋経済新報社』
『電力の歴史 (T・P・ヒューズ 著) 平凡社』
『ピンカートン探偵社の謎 (久保俊夫 著) 中公文庫』
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